外壁塗装 横浜曽根塗装店

塗装職人斯く語りき


 

青木茂

第2部

これを鎮魂を込めて亡き妻に捧げます


(以下,便箋15枚分の自筆原稿を若干の編集の上で掲載してあります。)

 



  • 平成16年5月19日午後4時47分、長い間私と苦楽を共にし支え続けてくれた妻が病院の集中治療室の一角で息を引取った。行年60才だった。
    昭和38年9月知人の紹介で初めて出会ってから41年目の事である。夫婦になってからも含めて二人の間には実に1万5千回に近い昼と夜があり、490ヶ月にも及ぶ長い歴史を積み上げ二人で刻み続け共有して来た人生の時計が停止した日でもある。

  • 1ヶ月半程の入院生活の中で主治医の先生から妻の病状はすでにどのような治療を施しても完治可能の範疇を超えており、余命は長くても数カ月と知らされており覚悟はしていた筈であった。
    その日の昼前、病院から妻の容態が急変したとの知らせを聞き、取るものもとりあえず馳せつけてから僅か半日であっけなく旅立ってしまった。体中の機能が麻痺し、一瞬悲しみさえも感じる余裕もなく涙も出ない程の衝撃の中に私はいた。魂が浮遊しているかの様に頼りなく、何からどうしていいのかさえ解らず夢と現実の区別さえも定かでない時間だけがのろのろと動いていた。

  • 堅い絆で結ばれている夫婦が普遍的な日常生活の中で長い年月を掛けて造り上げて来た歴史ほど尊いものはない。初老に差し掛かった男が唯一その生証人でもある大切な伴侶を喪なうという事がどれ程重く深い意味を持つのか時間が経つにつれて思い知る事になる。やり場の無い心を抱えて暮らす中で私と妻がどのような経緯で出会いを果たし愛し合い人生を共に歩こうと決心したのか。貧しくとも若く希望にあふれていたあの初めて出会った41年前の二人の原点に想いはいつも戻って行く。




  • 忘れもしない昭和38年9月8日新宿御苑で初めてのデートをした日、残暑の公園を歩きながら彼女は福島県阿武隈山地の北端に近い霊山町の出身である事、7人兄弟の末っ子で上京後洋裁学校を出て現在デパート等に商品を納める縫製工場で働いておりその寮に住んでいる事、9才の時に母親に死に別れ父親も一年ほど前に喪くしたばかりだと言う。彼女が物心が付いた時には母は病気がちで寝たり起きたりを繰り返していたと言う。
    母親の懐の暖かさを最も必要とするその時期に思う存分甘える事も許されなかったであろう幼く不憫な日常の中で彼女がどの様に人間形成を果たし成長したのか。頼りにしていた筈の父親も喪くして親という無私無償で子供を愛し味方をしてくれる後盾を失い人生の出発点から大きなハンディキャップを背負った彼女の行く末を思い、心が痛んだ。
    19才という年齢に似合わない落ち着きと清楚で初々しくどこか淋しそうな影とあどけなさの残る笑顔の中に私の捜し求めていたものを見付けた思いがした。この人なのだと確信し、その日のうちに恋してしまった。
    別れ際、夜の新宿駅のプラットフォームで電車に乗り込む彼女の頼りない後姿を見送りながら何としても 自分が幸せにしてやりたいと遠ざかる彼女の姿が見えなくなってもプラットフォームで立ち尽くしていたあの夜の光景が今でも目に浮かぶ。

  • 当時22才の若い私に、人生というものが楽しく享楽的な事ばかりではなく、悲しみや失意にまみれた絶望感等を複合したどれ程重く過酷なものであるか、しかしそれでもなお生きるに値する素晴らしいものである等知る由もなかった。




  • 昭和30年代半ばから始まった高度成長の中、オリンピックを目前に控えた東京の夜の街は建設ラッシュの槌音が響き、その時代に翻弄されるかのように二人とも仕事に忙殺された日々の中で擦れ違い、会いたくても会えない日々が続いていた。
    当時私は首都高速道路赤坂見附付近を工区にする塗装会社に勤めていた。日本全国から東京へ仕事を求めて流入してきた荒くれ男達に揉まれながら毎日大きな鉄骨で組み上げられた橋桁の研磨と塗装作業で汗と埃にまみれた重労働に没頭する事で彼女に会えなかった二ヶ月間程の辛い毎日を必死で耐えたのを覚えている。淋しさに耐えられない時、高いビルの屋上からアドバルーンの林立する空の彼方に彼女の住んでいた錦糸町方面をいつも探していた、甘く胸の痛くなるような青春の日々を思い出す。

  • 知り合ってから半年を少し過ぎた頃、思いきって彼女に結婚してほしいと伝えるとただ黙って私の目を見つめ返している黒く潤んだ様な瞳に再度念を押すと俯きながら小さく頷いて蚊の鳴く様な声で、私でいいんですかと返事をしてくれた。彼女の傍らでずっと守っていきたいからと告げると彼女の目から大粒の涙が溢れ出し頬を伝いながらポロポロと零れ落ちるその涙を拭おうともせずに肩を震わせている。たかが俺のような男のプロポーズに対し、これ程までに応えてくれる人が他にいるだろうか。思わず抱き締めた胸に伝わる鼓動の速さと彼女の吐息が40年以上の歳月を経た今でも蘇って来る事がある。
    彼女を送り届けて夜更けの街を一人歩きながら天にも昇る気持ちだった。どこを歩いていても足が宙に浮いているようで落ち着かなく夜も興奮してなかなか寝付けなかったのを思い出す。

  • 人はこの世に生まれながらにして赤い糸で結ばれた運命の人がいるという。後に妻となる彼女との出会いもこの広い東京で星の数程いる異性の中からたった一人いるであろう心から信じ合い愛する事の出来る人に巡り合う為に何と不思議な力の働きによっ て彼女はこの世に生まれ私もまた彼女に出会う為にこの世に生まれたのだと今は確信を深めている。

  • いつも遠慮がちに腕を組んで来た彼女もデートを重ねる度に二人の距離は縮まり気持ちが寄り添っていくのがわかる。初夏の陽に輝く湘南の海、ススキの波打つ百草園、晩秋の深大寺、芽吹の美しかった井の頭公園、二人で歩いた忘れ得ぬ場所の一駒一駒の中で彼女はいつも眩しい位に輝き微笑んでいた。時折見せる淋しそうな翳りは遠い未来の 運命を予知していたのだろうか。人の定めの儚さを知ればこそ束の間を飾ろうとしていたのかも知れない。




  • 日本経済の上昇を肌で感じながらも若い二人はまだ貧しくその中で懸命に働いて20万円程を貯める。
    そして、昭和40年3月4日二人は結婚する。交際を始めて一年半後の事である。



  • 伊豆一周の新婚旅行は二人で行く初めての旅だった。今井浜の旅館で眠い目をこすりながら見た二人の門出を祝福するかの様な日の出に感激する。波で濡れた私の靴下を大事そうに包んでいる妻、二日目下田東急ホテルに宿泊、奥石廊崎の草地で肩を寄せ合いまどろみの中で聞いたラジオから流れてきた早春譜の曲が40年近く経っている今でも耳に残っている。三日目船原ホテルの鱒釣場で大きな紅鱒を釣り上げ子供の様にはしゃぐ彼女があどけない笑顔を振り撒くのを見てしみじみ可愛いと思った。この人だけは絶対に裏切れない、守るのは俺しかいないのだと心に誓った。

  • 新しく二人で始めた生活のスタートは世田谷区三宿の閑静な住宅街の一角にある四畳半一間のアパートだった。当時各家庭に電気洗濯機などなかった時代、洗濯板を使用する共同の洗い場が外にあり、トイレも共同だった。それが平均的庶民の間借人の暮しだった。家電製品も少なく不便な日常生活の中でも妻は優しく毎日が幸せだった。
    西側に窓が有り、茜空の色が部屋の中までバラ色に染めていた。今はすでに無いかも知れないあの懐かしい小さな部屋こそ二人にとって原点とも言える場所なのである。

  • 新しい二人の生活が始まった頃、仕事帰りのバス停を降りるとそこに和服の上に割烹着を着た妻が立っている。我が目を疑った。そろそろ帰ると思って来てみたのと言って笑顔で近付いて来る。どうしてそこまで従順に尽くそうとするのか古き良き時代の伝統的美質を兼ね備えた大和撫子の様な人がまだ居るのかと改めて妻にのめり込んで ゆく自分の気持ちが見える様だった。



  • 貧しくても温かだったあの小さな部屋から始まった24才と21才の夫婦の前途に待ち受ける暗くて深い、時には荒く逆巻き、時には優しく凪いでいる人生の海峡を二人で力を合わせ櫓を漕ぎ続けながら40年近い歳月をかけて遙々と渡って来た。あとほんの少しで陸地に手が届きそうな所まで来た時妻が大きな渦潮に呑み込まれてしまったのである。この悔しさと切なさは共に波と戦い続けて来た同志であればこそ生涯消える事の無い傷跡を背負って生きるしかない。




  • 長い間老人介護の仕事をして来た妻は近年すこしずつ体調不良を訴える事があり、しかし定年退職も近い為、円満退職を目指し少し無理を重ね、健康診断で指摘されていた精密検査を先送りしたのが取り返しのつかない結果になってしまった。虫の知らせとでもいうのか妻は3月に入ると大阪に住む娘にしきりに会いたいと言い始める。春休みになったら以前から行きたいと言っていた南紀白浜経由で行こうと言ったら大喜びで 子供の様に指折り数えてその日を楽しみにしていた。4月2日本州最南端潮岬はその日強い南風が吹いていた。波頭砕け散る遙か水平線上を西へ向かう大型貨物船の影を見つめる妻のどこか淋しそうな横顔は気のせいだったのだろうか。

  • 大阪で娘の家族と再会を果たし白浜の市場で買ったマグロで豪勢な晩御飯を食べ、翌日はボーリングを楽しんだりと不治の病を抱えているとは思えないほど明るく元気で本当に嬉しそうだった。しかしその夜から体の変調を訴える。
    翌日は万博記念公園で花見をする事になっており、明日の朝の様子で決めようと早めに休む。朝になると大丈夫行けそうよと妻に笑顔が戻っている。あの日娘の家族と手作りのおにぎりを頬ばりながら愛でた満開の桜が妻はこの世で最後の花見になってしまった。
    翌6日再び体調が悪くなる。即帰京を決める。新幹線の中でも辛そうだった。
    4月7日即入院になる。最初の診断は胃潰瘍だったが数日過ぎても点滴以外は何の治療も具体的な説明も無く不安になり始めた。

  • 一週間程経ったある日主治医の先生に写真を見せられながら病状の説明を受ける。大きくなった癌が胃の壁を突き抜けすでに腹膜にまで達しており、最悪の状態であることを告げられる。
    その夜病院の外に出て折りから降り始めた雨にも気が付かず空白の頭を抱えて歩きながら拳を叩きつけたい衝動が何度も衝き上げてくるのを必死でこらえ何とか家まで辿り着く。大声を上げて泣きたかった。しかし、大変なのはこれからなのだ、本当の戦いはこれから始まるのだと渾身の強い意志で我が身に言い聞かせ涙さえも封じ込めるしかなかった。
    翌日からは容態の事実を妻に悟られないように精一杯の演技をしなければならない辛い日々が始まる。治る事のない病を治ると信じて明るく振る舞う妻を見るのが辛く病院に向かう足どりが日に日に重くなる。それでも毎日顔を見ないと安心出来なかった。

  • その後先生から今後の治療方針に付いて詳細な説明が有り、完治は望めないけれど一時的な症状の緩和とそれによって一時帰宅も可能である事、ほんの僅かな時間でも自宅で過ごさせてやりたい。その万が一の可能性に賭けて、本人には辛く苦しい方法であるけれど先生の薦める抗癌剤治療を施すしか当面の方法がなかった。その副作用によって絶え間なく襲ってくる吐き気とその都度口を拭うティッシュペーパーが毎日一箱以上使い切る。パジャマやタオルも日に2〜3枚は取り替えなければならない日が続く。
    それでも入院中の妻は病人とは思えないほど顔色も良く病状の悪さが信じられないと御見舞いに訪れた誰もが口を揃えるほどだった。絶対に治って家に帰るんだから、そしてもう一度上高地に行きたいと口癖のように妻は言っていた。私と歩いた中で最も感動的な場所として心に 刻み何度か訪れているあの圧倒的な高さで迫る穂高岳の勇姿をもう一度見せてやりたかった。

  • そんな妻が一度だけ弱音を吐いた事がある。苦しいから死にたい一緒に死のうと真顔で私の目を覗き込みながら訴えたことがあった。その時は背筋に冷たいものを感じ突然の事で言葉に詰まった。大丈夫だよと只一言いうのがやっとだったけれど、その時 妻の死後のこの悲しさと淋しさをもし知っていたなら誘惑に負けていたかも知れないと思ってしまう。

  • 常に3本程の点滴のチューブを付けられ身動きもままならない中で腹水が溜まって今にも破裂しそうなお腹を抱え苦しくて横になって眠る事さえ困難な状態が続き時には座ったままで寝息をたてていた。そんな妻はどこか超然としてさえ見えた。腎機能の低下による下肢のむくみが日に日に強まり、その冷たい足をさすりながら、それでも気分の良い日にはスイカが食べたいとかソーメンが食べられそうなのとねだる。次の日にはソーメンとスイカをいそいそと届ける自分の所詮報われる事のないその行為と差し出すスプーンを口を開けて待つ残り少ない妻の運命が悲しかった。
    木の芽も草も萌え出し地上の万物の生命力の最も旺盛になるこの時期、街路樹のアメリカハナミズキが白い花を咲かせ、その匂いを運ぶやわらかな風が吹きそんな中で妻の命だけが消えて行こうとしている現実だけが信じられなかった。

  • 視点を変えれば最愛の人の最後を看取る事が出来るという事は決して不幸な事ではなく、むしろ神に感謝すべき事なのかも知れない。40年間何時も私の傍で励まし支え助けてくれた妻に対し最後に応えてあげる男の誠意として少しでも長く一時間でも多く一緒に居てやりたかった。帰ろうとする私に横になったまま小さく手を振る妻の目がもっと居てほしいと訴えているのが辛く病室を出てエレベーターに向かう足どりの重さと一人の男が誰も待たない部屋に戻ろうとする孤独で侘しい自分の背中が見える様だった。




  • どんなに深い絆で結ばれ愛し合っている夫婦であっても必ず永遠に別れなければならない時が来る事は命有るものの定めであり法則であるとどれだけ自分に言い聞かせ納得させようと努力をした事か。そして絶対に覆る事のない現実を突き付けられる運命の日は突然やって来た。
    病院に向かう足取りがこれ程もどかしいと思った事はなかった。病室に入るとすでにベッドは引き払われ、もしやと不安がよぎる。集中治療室に運ばれたとの事。すでに酸素吸入が行われ苦しそうな呼吸音だけが響いている。昨日帰る時見た姿との余りの違いに驚き茫然と見守るしかなかった。目を半ば見開いて荒い息を吐き続ける妻に対し何もしてやれない無力な自分が情けなく只手を握り続けるしかなかった。苦しいのかと聞くと小さく頷く。もはやどんな励ましも頑張れとも言えなかった。せめて早く楽になってほしいと祈るしかない。

  • それから4時間後妻は目を閉じたまま静かにスーッと息を引き取った。酸素マスクから漏れる蒸気の向こうに人の死の荘厳で厳粛な空気が一瞬の間流れる。不思議な静寂の中で悲しさよりもなぜか悔しさが込み上げてくる。なぜこんなに早く妻は死ななければならなかったのか。最近折りに触れては二人で老後のことを話し合い、お父さんの面倒は私が看てあげるから大丈夫よと口癖のように言っていた妻の方が先に亡くなるとは。その事だけが自分の中でどうしても折り合いが未だに付けられないでいる。

  • 人は生まれた瞬間は四方八方から祝福の光に包まれている。上からも下からも眼前からも背後からも光によって守られ、その中を生きて行く。そして年を重ねる中で一つずつ希望の光は失われ最後の希望の光を失うとき人は死ぬ。

  • 現実に立ち戻され慌しい時間の中で病院を後にしてその夜自宅に安置した妻の顔は微笑さえ浮かべた様に安らかだった。どれ程家に帰りたかったことか。死ぬ事によってしかその夢を果たし得なかった妻の魂が本当に帰りたかった居場所とはいったいどこだったのだろうか。
    夢と現実の区別もつかない日々が明け暮れする中で葬儀を終え、 その後に続く煩雑な法的社会的手続きも一段落した頃、死を以ってしか逃れようのないかつて経験した事のない程の喪失感と孤独感と希望の無い将来への不安が重なり押し潰されそうな毎日をどうやって耐え忍び克服したのか今は思い出せない。




  • 生前どんなに理解し合い一心同体を自負する夫婦であってもその伴侶を失い欠け替えのない者との永遠の別離という大きな代価を払わなければ絶対に到達し得ない真の愛の世界が存在する。ある境地が垣間見えた時、周りの全てに優しくなれるような気がして、その頃から少し楽になったような気がする。

  • 遺品を整理している中で手紙の束の中に8年ほど前約二週間のヨーロッパ研修旅行に出掛けた妻から私宛に届いた二通のエアメールを見付けた。コペンハーゲンからとドイツハイデンベルグのホテルで認めた絵ハガキの中に懐かしい妻の書いた文字を見て、遠く祖国を離れ深夜のホテルで一人ペンを動かす妻の姿を想い、懐かしさで声を上げて泣いてしまった。とめどなく頬を伝うその涙の温かさが自分の心を癒してくれている事が不思議だった。

  • 蝉時雨が一瞬途絶えた残暑の照り返す道端にオシロイ花が咲き零れている。以前妻とこの場所で思わず立ち止まって見惚れるほど咲いていたのを思い出す。今年も同じように赤と白のコントラストの美しい群落が帯の様に続いている。私の孤独な心を知っ ていて慰めるかの様に咲き競い散り敷いている花に天国に召された妻の事を話してあげる。花の中でコスモスが一番好きなのと風に揺れるコスモスを眩しそうに見つめる後れ毛のなびく妻の横顔が今も目の中に焼き付いている。時々抜ける様な青空の中に揺れて咲くコスモスの幻覚が見える気がする。真冬の青空に咲くコスモスの妖精の様に凛としていつも私の胸の中に咲き続けてほしい。

  • 十代の頃にあれ程恋しかった盛り場も妻と世帯を持ってから殆んど興味も無くなり街の喧騒にはずっと背を向け、むしろ嫌悪感さえ抱いてきた。
    反面、自然の中に安らぎを求め歩き廻り、どんなに危険な3千メートルを越すアルプスの単独行の縦走すら怖いと思わなかった。時には無謀ともいえる冒険にも理解を示し賛同し物質的なサポートは言うに及ばず休暇が取れれば私のアルプス登山にも同行し、日本を代表する北岳、槍、剣岳等にもその足跡を残す登山愛好家でもあった妻は山行の事後報告にも真剣に耳を傾け、お父さんて凄いね良かったね子供の様に只その一言が聞きたくて、そしてどんなに疲れて泥にまみれて帰ってもお帰りなさいと迎えてくれる妻が居てくれると思えばこそ、自分が自分のままでそのままで受け入れられ何事にも大きく構えその懐の深さと口数も少なく傍に居るだけで静かに癒してくれる。妻はそんな人だった。
    何時でも安心して帰って行ける温かな場所が有るという事が男の心をこれ程までに安定させ行動半径を広げる原動力になっていたとは冒険者の大方の目的と動機は人々の賛辞と僅かな好奇心と自負心の証明である。



  • 人生観も価値観も魂をも根底から揺り動かし長所も短所も全て受け入れ、大きな後盾だった人生の伴侶としての妻の存在が自分の命よりも大切な欠け替えのないものであったかと改めて思い知らされる。
    精神の大事な支柱を失った今の私の心を癒すものはかつてあれ程求めてやまなかった静寂の森でもなければ天を圧するアルプスの頂でもない。不思議な事に、以前は足を遠ざけ嫌悪感さえ抱いていた盛り場に今は癒しの場を求めている。一時的な現象かも知れないが月に二、三度は新宿、渋谷、銀座等の雑踏の中を歩いている。自分とは全く与り知らぬ所でそれぞれの事情を抱え生きている只擦れ違うだけの見知らぬ人達、その群衆の中の一人になれる事で孤独な心が溶けて行くような安堵感を覚える。
    都の夜空を彩る天を焦がす様なネオンサインのシャワーを浴びながら底知れぬパワーを秘めた街の巨大なエネルギーの一部を造り出す小さな一粒の種になっている様な錯覚を覚えながら今日も一人銀座の街を歩いていく。 寄り添う者の居ない男の淋しさを見下ろすネオンが涙で滲んで行く。せめて一度妻と腕を組んで歩く事が出来るなら生前伝え切れなかった男の誠の胸の想いを伝えたい。この世で唯一人俺が命を賭けて惚れた人だったと。




  • 追憶の日々の中を容赦なく季節は通り過ぎ妻がこの世を去ってもう少しで八ヶ月になろうとしている。二百日余りを一人で暮らしてみて希望の無い空虚な時間というものがこれほど長く耐え難いものであるか、あの日以来私の心の中に魔物の様に巣食っている孤独というものが人生にどれほど大きな影を落とすものであるかも持って生まれた持病の様にこの先上手に付き合って行こう。

  • 新しい年が明けて大阪から帰省した娘一家を交え40年振りに妻の居ない正月を迎えた。背後で微笑む遺影の前で妻の手作り料理を欠いた御節を並べて今年こそは明るく家族が健康で過ごせますようにと願って献杯の盃を交わす。
    翌日記憶にないほど久し振りに父娘で映画を観にでかけた。今話題のベストセラーを映画化したもので感情移入を誘うストーリーに感動し泣けてしまった。娘も同じだったようである。満ち足りた思いで映画館を後にして夜の銀座を案内する。四丁目の交差点に来た時、銀座のシンボル時計台の鐘が午後六時を告げた。鳴り響く時計塔を見上げる娘の横顔にどこか妻の面影が見て取れる。不夜城のように明るい月の渦も街並みさえも一味違って見えた。

  • 私の淋しさが少しでも癒されればと娘婿と孫達がセキセイインコをプレゼントしてくれた。黒いつぶらな目とレモンイエローの小さな鳥が今日から私の話し相手になってくれる筈である。
    正月休暇が終わり大阪へ帰る娘一家の車を見送り部屋に戻る。ガランとした家の中は 宴の後の寂寥感が漂い賑やかだった反動が一気に押し寄せてくる。気が付くと今日から同居する小さな鳥が黙ってこっちを見ている。この部屋に私以外の生き物の気配がなかったら立ち直るのにかなりの時間を要したかも知れない。



  • 人生とは居場所を探す旅でもある。空腹を八分目程満たすそこそこの食べ物が有り自分の身の丈に合った、手足をゆったり伸ばせる魂の安らぐ静かで爽やかな場所を求める。何時果てるとも知れない悲しみからの逃避行の先にはオアシスのない荒涼とした砂漠の中を一人行くようで人生の茨の道は遠く決して平坦ではないかも知れないけれど、長い間 私を励まし支えてくれた人達の住むこの街でせめて明日から第二の人生に向かって明るく一歩を踏み出そう。



後記
    道端に咲くどんなに小さな花にも足を止めてしゃがんで話し掛けていた心優しい妻と歩いた奥多摩御前山のカタクリ高峰山の吾妻石楠花八ヶ岳山麓に小梨の花を探し求めた山旅を懐かしく思い出している。
    花の気持が解るかのように会話していた妻の魂は今頃山の彼方に人知れず咲く野の花々の精の中に抱かれて安らかに眠っているのかも知れない。
    何時の日かその思い出の地を再び訪れる日が来ることを願いつつ。



2005年1月   


 

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