外壁塗装 横浜曽根塗装店

塗装職人斯く語りき


 

青木茂

 

(便箋7枚の自筆原稿をほぼ原文のまま掲載してあります。)

 

 


  • もはや戦後ではないと言われた昭和31年春、新潟県佐渡島北部、日本一僻地の中学校をケツから数番目で卒業する。
    将来何をするか目標の見つからないまま集団就職で東京の工場へ行こうとして親父に反対され、苦しまぎれに絵を描く事が好きだったこともあってペンキ屋(当時田舎では主に看板屋を指す)になると言ったのが運の尽きで、義兄の戦友が働いているという新潟市の「M興業」に就職することになる。
    一癖も二癖もありそうな職人達が常備20数人、当時の塗装業者としては県内でも上位にランクされていた。発注元では学校、鉄道関係、橋梁、石油コンビナート、巨大ダムの水門、鉄塔等、筋金入りの野丁場専門の店である。

  • 当時は現場の安全管理体制が遅れていて、どんな高所作業も丸太の1本足場が常識であった。
    厳冬期、越後の山間部では足場丸太から1メートルものツララが下がる事も珍しくない。そんな時、ツララを叩き落としながら作業する事もあった。
    灼熱の石油タンクの中、酸欠で失神しそうになった事、新潟平野特有の季節風吹きすさぶ中、送電線鉄塔の塗替えでは吹き飛ばされないよう只しがみついていた。
    信濃川に掛かる橋桁塗装で15メートルの高所で吊り足場の組替作業、若干15才の少年にとって余りに衝撃的で、死と隣り合わせの仕事の内容に圧倒され毎日夜になると逃げ出すことばかり考えていた。
    そんな時踏み留まらせていたのは先輩職人達の優しく朗らかな笑顔であった。
    しかし、恐怖と重労働、当時人一倍シャイだった少年にとって住み込み生活にも馴染めず、足掛け3年目、耐え切れず故郷に戻ることになる。

  • それでも一度体に染み付いたペンキの臭いは簡単に消えるものではない。
    ほどなく地元相川町「K塗装」で働き始める。
    そして4年が過ぎた頃、オリンピックに向けて首都東京では建築ラッシュに拍車がかかっていた。それは、全国規模で職人を募集する程の勢いで、(当時東京での日当は田舎の2倍近かった)その波に乗せられて給料を上げるから残れと言う親方の反対を押し切り、昭和37年秋、憧れの東京で第一歩が始る。

  • 最初の店では奥さんの尻に敷かれ愚痴ばかり言う親方に失望し、夜中タクシーにフトン袋を積んで同僚とヘゲる。
    二軒目の店は大手企業の天下りを事務員に据える野丁場専門の株式会社で、印象に残っているのは、南アルプス山中の発電所二次工事に持参した塗料を深夜の駅であわてて降りる時、座席の下に置き忘れてしまい、おまけに1週間程滞在した飯場の食事は最悪で東京へ帰ってから体重を計ったら4kgも減っていた。 只、帰りに韮崎出身の同僚の実家に一晩泊めてもらい、その妹が可愛かったのがチョット気になった。
    その頃首都高速道路の工事も最盛期で赤坂見附付近で盛夏の2ヶ月ほど工事に携わった。

  • その後、住宅塗装主体の店を数軒廻り回って曽根塗装店店主、先代の親方に巡り会う。その人柄にも魅かれて今日まで足掛28年間お世話になって居ります。

  • この道に入って早45年、還暦も過ぎてしまいました。就業日数も1万日を超えていると推察できますが、何よりも誰よりもこの仕事が好きだったから、刷毛さえ持っていれば時間の経つのも忘れるほど充実していたから、どんな現場であっても精神誠意努力を惜しまなければ必ず良い結果をもたらし、最高の達成感と満足感を得る事が出来ると確信する。
    浮き沈みの激しい時代を生きる中で如何なる困難も乗り越え挫折感の中からも這い上がって来れたのも今だ夢にまで見る新潟「M興業」での只歯を食いしばって耐えるしかなかったあの地獄の日々の体験こそがこの業界で生きる魂に筋金を一本通す事になったのは間違いない。
    そして、人間形成に大きく関与し自信と誇りを持てるまでに成長させてくれた当時、同じ時間を共有し育んでくれた優しく朗らかだった職人達に今は誰よりも逢いたい。




  • 日本の高度経済成長に大きく携わり走り続けてきたこの業界もバブル崩壊とともに失速し行き場を失い今や需要と供給のバランスが崩れデフレ市場が発生している。
    今では職人と呼ばれる技術を芸術の域にまで磨き上げようとするプロフェッショナルとしての誇りもポリシーもない大企業の下請け業者として価格競争に明け暮れ、コスト削減に目の色を変え、受注の為には手段を選ばない簡単に妥協を許す奴隷集団に成り下がっている。
    加えて各塗料メーカーの開発競争の波に翻弄され、氾濫する情報の多さに振り回された挙句カタログのマニュアルを守る事に終始するあまり現場によって異なる対応の必要性、塗料に使われるのではなく、どんな塗料でも使いこなせる熟練した技術までも枯れてゆこうとしている。

  • 時間を惜しみなくかけ納得のいく仕事をするのも職人ならば、最短時間で最高の仕事をするのも職人なのである。
    遠き古き良き時代にまで遡れば職人とは、手間賃以外の一切の賃金を要求せず、日当幾らの中で持てる最高最善の技術を駆使し長年培われた無駄のない動作で誠意をもって作業を終える。
    手間賃以外に利益を求めるようになって以来この業界の堕落が始ったのではなかろうか。




  • この道一筋45年間歩いてきて塗装という定義について時々考えることがある。
    大きく二つに分けて「塗」という字は素材の保護延命を目的とし、二つ目は文字通り「装」う、つまり美観の問題である。
    そしてこの二つの目的を、同時に求めれば求めるほど相反する結果になるのである。どんなに塗膜の耐久性が優れていても長年の気候条件による汚れ色焼け脱色までは避けられない。また、素材の接合部分つまり水廻りの充填材保護延命はできても亀裂止めをする程の強度は塗料には用意されておりません。
    私の持論としてペンキとは塗れば必然的に禿げる物なのである。
    自分の命を削って素材を保護し、その役割を終え、次の塗料にその役割をバトンタッチする時期のサインがペンキが禿げるという現象である。
    建物の水廻りも含めて足場を掛けなければ細部の点検修理が不可能であれば、建物自体の保護延命及び美観全ての条件を満たそうとする時己ずとそのサイクルは決まってくるのである。




  • 私はギャンブルとか酒には殆ど興味はない。仕事は生業いとして人生の大半の時間を致し方なく割かなければならないが、そうまでして生きる人生の意味は、目的とは何かを常に考えている。人はこの世にそれぞれ使命を持って生まれ、そして生きた証しを残さなければならない。
    その存在価値を探す旅が人生ではなかろうか。
    そして先ず頭に浮かぶのが宇宙の存在の不思議である。
    この余りに捉え所のない未だ人類の叡智など入口にまでも辿り着けないでいる。
    私はアメリカの人工衛星ランドサットから地球の姿を捉えた写真を見た事があるが、それよりもずっと以前、小学校の頃に先輩達の作った立体地図の模型を見た時の衝撃的な出会いは今でも鮮烈な記憶として残っている。
    立体地図の前に立ち尽くし暫く離れる事が出来なかったその時に、人生の目的である小さな根っ子が出来上がった気がしたのである。

  • それから少しずつ芽が膨らんで、更にスペースシャトルによる日本上空からの映像を見て再確認する。宇宙の創造主である神は自分で造った星の中で一番美しい地球の姿を賞賛して欲しいが為にそれを見て感動出来る頭脳を持った人類を誕生させたのだと...。
    そして、日本の立体地図を作ろう、それも繋ぎ合わせる事の出来る縮尺5万分の1と決めた。将来日本の子供達がそれを見て感動出来る様な物、曾ての自分に重ね合わせて。

  • 私に残された物理的な時間内には完成は見ないかもしれないけれど、確かなものを信じ費やした時間であれば長さは問題ではなく、その精神こそ尊い。
    我が身が滅びた後にも何処かの片隅で一人でも多くの心に安らぎと感動を与えられるような文化遺産的価値の有る物が作れるならば作者は本望でありその魂は永遠に生き続ける。


▼ 故郷 佐渡の自作立体地図
 

▼ 1円玉を置いて接写
 

   

  作成中の地図の表と裏

    1.作業台の上に厚紙を置く
       ↓
    2.厚紙の上に赤のカーボン紙を置く
       ↓
    3.カーボン紙の上に地図を置く
       ↓
    4.地図の上から鉄筆で等高線をなぞる
       ↓
    5.厚紙に転写された等高線をカッターで切る
       ↓
    6.切った厚紙を重ねて糊付けする
       ↓
    7.仕上げに陸地を白,水面を水色で塗装する

   という工程で作製されています。
   「自分が死んだら何処かに展示して欲しい」そうです。

 


 

 


  • 私は自分の内面から発せられる何かに衝き動かされて若い頃から登山を始めて現在日本アルプスの三千メートル峰は殆ど踏破しておりますが、驚く事に、その山頂付近にある岩石の佇まい、苔類微生物の付着等による色合いが遠い少年時代の夏休みに毎日のように獲物を求め潜って遊んだ海の底にある石や岩棚に余りに似ているのはなぜなのか。気の遠くなるような時間でしか成し得ないどのような力が働けば海底が三千メートルの高みにまで到達するというのか。壮大な宇宙の絶対的な秩序と法則による地球創世のドラマを垣間見る思いである。

  • 母の胎内に抱かれていた遠い記憶を呼び覚ますかのような静寂だけが支配し不思議な安心感の漂うあの海の底への回帰願望が私を山へ駆りたて、時には潮の匂いさえ求めて山頂付近を歩き回っている自分に気付く事がある。
    私の行動の全てを司る核になっている生まれ故郷の海と空を想い、心は何時もあの村へ還っていく。



平成14年1月 青木茂

第2部へ続く

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